第2部 私とは何か?
4 「私」、の理解を妨げる3つのハードル
これまでの話で、「目の前の世界は物質の世界である」という一般常識に対して疑問を感じられたでしょうか。これまでお話ししてきたことは、「そういう考えもある」というような類の話ではありませんし、仮説でもありません。
「目の前の観葉植物が緑色をしている」という事実から理詰めで辿ることで、目の前の世界、目の前の身体、そして自らの心と思っているものは、それぞれ「見かけの物質の世界」、「見かけの身体」、そして「見かけの心」であることが導かれます。
第2部では、第1部で導いたそれら「見かけの物質の世界」、「見かけの身体」、そして「見かけの心」から新たな事実を明らかにします。
「私とは何か?」へ辿り着くには、この先3つのハードルが存在します。何れも難関ですが、一つずつ乗り越えていくことにしましょう。
1つ目は、私が見ている、という思い込みの分析 (4―1)
2つ目は、目の前に見えている対象とその認識の関係 (4−2)
3つ目は、私という思い(自己意識)の分析 (5−3)
なお、末尾のカッコ内の数字は、それらを扱っている項を示しています。
4−1 「私はここにいて、その私が見ている」というトリック
この論文のサブタイトルは「脳によって仕掛けられた難解なトリック」です。つまり、「私とは何か?」という問い掛けに対して、ちょうどトランプの手品のトリックのように、私たちには強い思い込みがあり、それが「私」の本当の姿を理解するのを妨げています。その一つは、この4−1でお話する「私の存在」にかかわる誤った思い込みであり、いま一つは4−2でお話する「認識」に関する思い込みです。これらの誤った思い込みを解き明かし、そこから得られる重要な事実を明らかにします。
(1)「私が見ている」という思いの分析
私たちには,「私はここにいて、その私が目の前の対象を見ている」という思いがあります。その思いから「私は目の前のコーヒーカップを見ている。だからそれは物質であり、見ている対象だ」という誤った思い込みを抱くことになります。
確かに物質の世界においては、視線を例えばコーヒーカップに向けたとき、そこで反射した光が網膜に達しているわけですから、その状態を指して「私(肉体としての身体)がコーヒーカップ(物質としてのコーヒーカップ)を見ている」と表現するのは正しいことであり、何ら問題ありません。「逆さの網膜像」の話の中で、「見る」という動詞は、物質の世界における行為を表している、とお話ししましたが、まさしくその通りです。
しかし、私たちが「私はここにいて、その私が目の前のコーヒーカップを見ている」と表現するとき、それは物質の世界での話ではなく、目の前に広がる世界でのことです。そして、その目の前に広がる世界は「物質の世界」ではなく、脳の情報処理の結果生み出された「見かけの物質の世界」です。事実、いまあなたの目の前にコーヒーカップが見えていて、「私は目の前のコーヒーカップを見ている」と表現されるときのコーヒーカップは、「見かけの物質」としての「見かけのコーヒーカップ」です。
一方、「私はここにいて」で示される「私」は、「見かけの身体」にまつわる思いです。その「見かけの身体」には当然のことながら網膜は存在していませんし、見るという機能は備わっていません。「明るい光を見れば眩しさを感じるではないか」という反論があるかもしれませんが、それは「肉体としての身体」の眼に光が達して生じる感覚であり、「見かけの身体」の、もともと存在しない眼に基づく感覚ではありません。また、「鏡に映せば眼が見て取れるではないか」という反論もあろうかと思いますが、それも見るという行為の結果としての眼であり、物質の世界ではなく目の前に広がる世界の中に存在する「見かけの眼」です。
そもそも目の前に広がる「見かけの物質の世界」には電磁波としての光は存在しませんし、その存在しない光が「見かけの物質」である目の前のコーヒーカップから「見かけの身体」の、もともと存在しない網膜に伝播することはありません。つまり、目の前に広がる世界においては、「私が見ている」という行為は存在していません。
それにも拘わらず、私たちは「私が見ている」という思いを持っています。この事実、「私が見ているわけではないのに、私が見ているという思いが生じている」ことは、「私とは何か?」について考えるとき、非常に重要なポイントになります。これについてはのちほど5−4で詳しくお話することになります。
分かりづらい話だと思います。いま一度要約すれば、目の前のコーヒーカップは見るという行為の結果そこに存在しています。つまり、それは「見た結果」です。また「見ている」と思われている身体は「見かけの身体」であり、「見かけの身体」に見るという機能は備わっていません。従って、「見た結果をさらに見る、ということはあり得ない」ということです。
「肉体としての身体」に備わっている目の向き、つまり視線を外界の対象に次々と向けることは可能です。しかし、「見かけの身体」には視線は備わっていません。それは言わば、「見かけの身体」にまつわる「見かけの視線」ということになります。その「見かけの視線」によって「見かけの外界」がそこに立ち現れるわけですが、「私が見ている」という思いのなかの「私」が、「見かけの視線」の逆方向に位置付けられていることが、「私が見ている」という誤った思いを持つ原因の一つになっている、と言えましょう。
(2)「私が聞いている」という思いの分析
同じことは「私が聞いている」という思いにも当てはまります。例えばピアノの演奏を聴いているとき、物質の世界においてはピアノからの空気の振動が耳に到達する状態を指して「私(肉体としての身体)はピアノの演奏(空気の振動)を聴いている」と表現することに問題はありません。
しかし目の前の世界においては、ピアノの音は目の前のピアノそのものに位置付けられています。聞くという行為の結果であるピアノの音を更に聴く、ということはあり得ません。それは「見た結果を更に見る」ということはあり得ないのと同じことです。
同様なことは、触覚についても言えます。例えば、腕に痛みが生じたとき、それが物質の世界においてなら、腕のその部位から痛みに関する情報が脳に伝えられ、その状況を指して、「私は痛みを感じる」と表現するのであれば、少々問題のある表現かと思いますが、可能でしょう。しかし、目の前に広がる世界において、腕のその部位に痛みが感じられるのは、その部位に痛みが存在しているのであり、更にその痛みを指して「私が、その痛みを感じる」ということはあり得ないことです。
4−2 「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」というトリック
前の項で、「私が見ている」という思いが、「目の前の世界は見かけの物質の世界である」という事実を覆い隠すトリックになっているとお話ししました。そして、目の前の世界においては、「私が見ている」という行為は存在しておらず、この事実は、「私とは何か?」という問い掛けに対して重要な意味を持つことになるとお話ししました。
それと同様に、「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という思いが、認識の本質を見誤らせるトリックになっており、これも「私とは何か?」という問い掛けに対して重要な意味を持つことになります。
(1)認識について
「私とは何か?」という問い掛けついて考えるにあたって、「認識」についての考察を外すことはできません。これまで見るという行為について分析してきたわけですが、見るという行為によって外界が認識されるとはどういうことなのか、という問題をまずは明らかにしておく必要があります。
例えば、コーヒーカップを見てその存在が認識できるということについて考えてみましょう。それが人間型ロボットのような機械であれば、外界からの情報を処理して選択肢の中からコーヒーカップという1つの選択がなされれば、それで結果が得られたということになるでしょう。
しかし、人間のような意識活動を伴う生物の場合には、それで終わるわけにはいきません。外界からの情報が脳に送られ、そこで情報の処理が行われ、その「見た結果」として、目の前にコーヒーカップが存在することになります。その目の前のコーヒーカップの
存在が認識とどう結びつくのか、が問われることになります。
「デカルトのホムンクルス(小人)」という、デカルトの二元論を揶揄した言葉があります。デカルトは目から得られた外界の情報は、脳の中心部にある松ぼっくりに似た形をした松果体に運ばれ、そこで認識が生じると考えたようです。しかし、外界の情報が松果体に運ばれるとしただけでは認識を説明したことにはならず、「外界からの情報を読み解く人物が、脳の中に存在する必要があるではないか」と反論されたわけです。当時の解剖学のレベルを考えれば、その程度の推論でも止むを得ないかと思うのですが、脳の仕組が明らかになりつつある現代においても、「認識とは何か?」という問題は依然として謎のままです。
(2)認識という言葉の定義
認識という言葉の定義をまず行なっておきたいのですが、哲学論議のような奥深い話をしようというのではありません。認識を高次と低次の2つのレベルに分けて話を進める、ということで、言葉を使い分けるといった程度の話です。つまり、認識には便宜上2つのレベルがあるとして話を進めたいと思います。
例えば、人の顔を見て誰だか分かるとか、時計を見ていま何時であるか分かるとか、目の前のカップがコーヒーを飲むための器であることが分かる、というように、目の前の対象が何であるかが分かるという「高次のレベルでの認識」と、何であるかが分かるかどうかに先立ち、目の前に対象が存在していることが分かる、という「低次のレベルでの認識」の2つです。ここでは、低次のレベルの認識だけを扱うことにします。
(3)2つのステップ
「私はここにいて、その私が見ているのだから」という思いは難解なトリックであり、それが、目の前に広がる世界が「見かけの物質の世界」であることを、また目の前の身体が「見かけの身体」であることを見抜くのを難しくしていると、4−1でお話しました。
一方、ここで取り挙げる認識については、「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という思いが難解なトリックとなり、認識の真の有り様を見抜くのを難しくしています。
つまり、「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という表現から分かるように、一般的な解釈の下では、目の前の対象についての情報が見るという行為によって「私の心」の中に取り込まれ、そしてそこで認識が生じる、と考えられています。そして、目の前の対象についての情報が「私の心」の中に取り込まれるという思いから、認識とは抽象的なものである、という印象が持たれることになります。
しかし、心には知、情、意という言葉で表される抽象的な部分があるものの、目の前のコーヒーカップそのものが心の世界の存在であるというように、心を具体的なかたちで示せる部分があるのと同様に、認識についても具体的なかたちで示せる部分があります。
「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という表現には、「目の前の対象を私が見て」、そして「その存在を私は知る」というように2つのステップがあることが示されています。言い換えれば、見ることによって始めて対象の存在を知ることができるということでしょう。「見もしないで、どうしてその存在を知ることができるのか」ということで、当たり前のことではないかと思われるでしょうが、しかし、ここに認識についてのトリックがあります。
(4)最初のステップ 「目の前の対象を私が見て」
コーヒーカップを見る場合について考えてみましょう。物質の世界においては、物質であるコーヒーカップから肉体である身体に向けて光(電磁波)の伝達があり、網膜にコーヒーカップの像が結ばれます。コーヒーカップと身体との間には「見ている対象(物質)」と「見ている身体(肉体)」の関係があり、この関係を指して「対象を見る」と定義することができます。これは間違いのない事実であり、どこにも問題はありません。
しかし注意しなければならないのは、「目の前の対象を私が見て」と表現されるとき、それは物質の世界でのことではなく、目の前に広がる世界でのことだ、という点です。つまり、「目の前の対象を私が見て」で示されている対象は「目の前に見えているコーヒーカップ」であり、物質の世界の中の「物質としてのコーヒーカップ」ではありません。その「目の前に見えているコーヒーカップを私が見るということはあり得ない」ことは、今しがた4−1で説明した通りであり、「見た結果をさらに見る」ということはあり得ないことです。
つまり結論として、認識の第1ステップである「目の前の対象を私が見る」という行為は存在していないということです。
(5)2つ目のステップ「その存在を私は知る」
では次のステップである「その存在を私は知る」とはどのようなことでしょうか。網膜からの情報は大脳の後頭部の視覚野に伝えられ、更には2つのルートを辿って、最終的には前頭葉の視覚連合野に運ばれることが分かっています。しかしそれだけでは「その存在を私は知る」ということにはなりません。デカルトは外界からの視覚情報は松果体に運ばれ、そこで認識が生じるとしました。視覚野や視覚連合野は確かに視覚情報の処理を司る領域ではありますが、「その存在を私は知る」という認識の観点からすれば、松果体ではなく視覚野や視覚連合野に運ばれると言い換えられただけのことであり、認識そのものについては何ら説明しているとは言えません。
繰り返しになりますが、一般常識では、目の前に見えているコーヒーカップは「見ている対象(物質)」であり、目の前に見えている身体は「見ている身体(肉体)」であると考えられており、そこには「目の前の対象を私が見る」という関係が定義できる、と考えられています。しかし、今しがたお話したように実際はそうではありません。目の前に広がる世界では「見ている対象」と「見ている身体」の関係は定義できません。何故なら、目の前に広がる世界においては、目の前のコーヒーカップは「見かけの物質」であり、目の前の身体は「見かけの身体」であり、「見かけの物質」から「見かけの身体」に向けて光が伝わるということはありません。つまり、「見る」という行為は存在していません。
見ているわけではないのに「その存在を私は知る」ということは、何を意味しているのでしょうか。それは、「目の前の対象そのものが認識である」ことを意味していることになります。
分かりづらいと思います。いま少し表現を変えて説明してみましょう。あなたは目の前のコーヒーカップを見ていると思っていますし、また、目の前のコーヒーカップを見ることでそのコーヒーカップの存在が認識できる、と思っているわけです。
しかし、実際はそうではなく、あなたが自らの身体と思っているものは「見かけの身体」であり、あなたが見ていると思っているコーヒーカップは「見かけの物質」であり、そこには「見ている身体」と「見ている対象」の関係は存在しません。目の前のコーヒーカップは「見た結果」としてそこに存在しているのです。あなたは目の前のコーヒーカップを見ているわけではありません。事実、4−1(1)でお話したように、「見た結果をさらに見る」などということは有り得ません。「見ているわけではないのにコーヒーカップの存在が分かる」ということは、そこに見えているコーヒーカップは、存在であると同時に認識でもある、ということになります。
「あなたの目の前に、コーヒーカップは存在していないのでしょうか?」
「いいえ、存在しています。」
「あなたはそのコーヒーカップを見ているのでしょうか? 」
「いいえ、見ているわけではありません。」
「あなたは目の前にコーヒーカップが存在しているのが分からないでしょうか?」
「いいえ、分かります。」
見ているわけではないのにそのコーヒーカップの存在が分かるということは、あなたの目の前のコーヒーカップは存在であると同時に認識だということです。「目の前の対象を私が見ている」という思いが、認識の本質を見誤らせる原因になっています。
低次のレベルでの認識の様式は高次のレベルでの認識と異なるかもしれませんが、しかし、少なくとも低次のレベルでの認識においては、「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という認識の様式はあり得ず、「目の前に対象が存在することが、同時に認識である」ことになります。これは逆に言い換えることも可能でしょう。つまり、「認識は同時に存在である」と。もちろん、心の世界における存在の意味は、物質の世界での存在とは異なったものでありましょう。
4−3 認識という観点からみた心の世界
「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という認識の様式は存在せず、「目の前に見えていることが即ち認識である」、言い換えて、「目の前に存在していることが即ち認識である」ということですが、それは音や触覚などの他の感覚についても当てはまるだろうということは、容易に理解できるでしょう。
いま聞こえている音は「音を私が聞いて、その存在を私は知る」のではなく、音そのものがその位置に存在し、そしてそれが同時に認識でもあるわけです。ピアノの演奏による音色は、その音色そのものが存在であり、同時にあなたの認識です。聞こえている音を更に聞いているのではなく、また聞こえている音を認識するのではなく、いま聞こえている音そのものが存在であり、認識であるわけです。ピアノの演奏を聴いて受けた感動が「あなたの心」の中のできごとであるのと同様に、そのピアノの音色そのものが「あなたの心の世界」の存在であり、認識であるわけです。
触覚の場合も同じです。「触覚を私が感じて、その存在を私は知る」のではなく、その触覚そのものが見かけの身体、あるいは見かけの身体と接触する部位に存在し、同時にそれは認識であるわけです。
認識は外界(物質の世界)からの情報が心の中に取り込まれて生じるものである、という思いがあります。確かにそれは正しいのですが、問題は、その外界を目の前に広がる世界に重ね合せてしまうところにあります。「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」という表現がそこのところの事情を端的に示しています。つまり、認識は「私の心」の中で生じるものであり、それには「見かけの外界」からの情報が一旦「私の心(見かけの心)」の中に取り込まれなければならない、と考えてしまうわけです。しかし、実際はそうではありません。目の前に広がる世界に対象が存在することが、同時にその対象の認識です。
認識は見かけの外界からの情報が「私の心(見かけの心)」の中に取り込まれて生じるものである、という一般常識としての考えは、言葉遣いにも表れています。目の前に広がる世界において「見かけの身体」の外の対象に対しては、「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」とか、「周りの音を私が聞いて、その存在を私は知る」というように、見かけの外界からの情報が一旦「私の心(見かけの心)」の中に取り込まれるという表現が使われます。
しかし、もともと心の中の現象であると考えられている感情については、「相手の人の悲しんでいる様子を私が見て、その人の悲しみを私は知る」と表現されることはあっても、「自らの悲しみを私が感じて、自らの悲しみを私は知る」と表現されることはありません。悲しみが「私の心(見かけの心)」の中のできごとであり、改めて心の中に取り込む必用がないと考えられているからでしょう。
喜びや悲しみなどの感情は、それそのものが認識であるという考えは一般常識としてもありますが、しかし、目の前のコーヒーカップそのものが認識であるという考えは一般常識にはありません。目の前に広がる世界に対象が存在することが同時に認識であるということも、目の前に広がる世界が心の世界であることを考えれば、格別不思議なことではないはずです。
5 私とは何か?
これまで長い道のりを辿ってきましたが、「私とは何か?」についての結論をお話しするときになりました。もちろん「私とは何か?」について、そのすべてを明らかにする、あるいはできるというものではありません。最初の一歩に過ぎませんが、しかしそれでも「私とは何か?」についての核心部分はお伝えできると考えています。
5−1 「私」という存在の問い直し
この原稿の初めに示したように、私=私の身体+私の心、という図式で表すとき、「私の身体」と「私の心」は一般常識ではどのようなものであると考えられているか、繰り返しになりますがもう一度見ておきましょう。
一方の「私の身体」は「肉体としての身体」であると考えられています。もう一方の「私の心」は、その肉体としての身体の脳によって営まれる知、情、意から成り立つものであり、抽象的な存在であると考えられています。
一般常識では、という断りの下での話なので、その通りの常識的な話であり、何の変哲もないもので終わります。従って先ほどの図式は、私=肉体としての身体+知、情、意から成る心、と書き表すことができます。確かに、この図式で表されるものを指して「私」と定義することに、何ら問題はありません。これはこれで正しい解釈だと言えます。
しかし、これまで行なってきた心についての考察と照らし合わせて考えてみると、私たちは果たしてそのような存在を指して「私」と言っているのだろうか、ということが疑問になります。そこで、私=私の身体+私の心、という図式を常識からではなく、これまで行なってきた心の世界の分析を通して問い直してみたいと思います。
まずは「私の身体」についてですが、いまあなたが「私の身体」と思っているものは、目の前に見えている自らの身体であるはずです。視線を向ければそこに見て取れる身体であるはずです。その身体は、物質の世界に属する肉体としての身体ではなく、心の世界に属する「見かけの身体」であることは、既にお話した通りです。私たちは、心の世界の中の「見かけの身体」を自らの身体であると思い込んでいるわけです。肉体としての身体の存在は、知識として知っているだけのことです。
一方「私の心」についてですが、心についてもこれまで分析した通りであり、真の心の世界は一般常識の心とはまるで異なったものです。あなたの「見かけの身体」を含み、あなたの「目の前に広がる世界」そのものが、「心」のすべてというわけではないものの、心の世界の一部であり、それが「私の心」であるはずです。
しかし、いまこの原稿を読んでいるあなたに感じ取れる「あなたの心」は、目の前のあなたの「見かけの身体」の顔の内側あたりに存在すると思われているはずです。それは、「見かけの身体」の「見かけの視線」の逆方向に位置づけられているものです。そこには当然ながら脳は存在していません。4−1(1)でお話したように「見た結果をさらに見る」ということはありえず、見ているという思いが「見かけの顔」の内側に位置付けられているだけのことで、実体を伴ったものではありません。したがって、それは一般常識での心であり、真の心とするわけにはいきません。これまでも用いてきましたが、言わば「見かけの心」と名付けられるべきものです。「見かけの心」も心の世界の一部ではあるものの、心の世界そのものと一致するわけではありません。
つまり、「私」の構成要素である「私の身体」は「見かけの身体」であり、「私の心」も見かけの身体に宿る「見かけの心」であると解釈されるべきものです。何れも自らの心の世界の中の存在です。そこで、「私」についての先ほどの図式は、私=見かけの身体+見かけの心、という形で表されることになります。ただし、ここでの「心」は、3−3(2)でお話しした「狭義の心」についてであることにご注意下さい。
5−2 「私とは何か?」への回答
「私」という存在は、私=私の身体+私の心、という図式で表されるとして話を始めました。そして、前項での「私」という存在の問い直しの結果、私たちが「私」と思っているのは、「私=見かけの身体+見かけの心」、と表されるものである、ということでした。これまでお話してきたことは、意識化された現象のみを心とする狭義の心の世界についてであり、また認識については、目の前に対象が存在することが分かる、という低次のレベルの認識についてでした。脳の情報処理を含む広義の心の世界については、また、ものごとの意味など高次のレベルの認識については何ら言及していません。
そのような情況のもとで、「私とは何か?」という問いに対して回答を述べようとすることが適当でないのは承知していますが、前項までの話からすれば、私は
「私=見かけの身体+見かけの心」
であり、それは目の前に見て取れます。そしてそれが存在しているのは目の前に広がる世界、つめり、「自らの心の世界の中」です。従って
「私とは、自らの心の世界の中に生み出された存在である」
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確かに一般常識では、「私の身体」は物質の世界に存在する肉体としての身体であり、「私の心」はその肉体としての身体の頭部に位置する脳によって生み出されるものである、と考えられています。事実、私たちには肉体としての身体があり、その頭部に存在する脳を含め、その肉体としての身体が私たちを生理学的な側面から支えているのは間違いのない事実です。
また、「私の心」として、脳による情報処理と、その結果としての意識化された現象が存在するのもまた事実です。従って私=肉体としての身体+知、情、意から成る心、をもって「私」と定義することは可能であり、間違いということはありません。
しかし、私たちに固有の肉体としての身体があるのは確かですが、では、その肉体としての身体はどこにあるのでしょうか。目の前に見えている身体を自らの肉体としての身体であると思っているのではないでしょうか。しかしそれは、心の世界の中に存在する「見かけの身体」であり、肉体としての身体ではありません。
心は脳によって生み出されるという考えも、正しいでしょう。では、その心はどこにあるのでしょうか。「顔の内側辺りにあるようだ」という答えが返ってくるのではないでしょうか。しかし、それは「見かけの身体」の顔であり、肉体としての身体の顔ではありません。従ってその内側には脳はありません。見かけの顔の内側をいくら探しても、私たちが探しているような心は現れてきません。そこに位置づけられているのは「見かけの心」であり、心の世界の一部ではあるものの、知、情、意という言葉で表される心の高次の機能が、その部位に位置づけられていると思い込んでいるに過ぎず、知、情、意そのものがそこに存在しているわけではありません。
つまり、私たちには肉体としての身体があるというのは事実ですが、私たちが自らの身体と思っているのはその肉体としての身体ではなく、心の世界の中の「見かけの身体」です。また心が脳によって支えられているのも事実でしょうが、私たちが自らの心と思っているのは、心の世界の中の「見かけの心」です。目の前のコーヒーカップがコーヒーを飲むための器である、という意味を伴って心の世界の中に存在するのと同じように、「私」は「私という思い」を伴って自らの心の世界の中に存在している、と言えます。
このような回答に対し、腑に落ちなさを感じることと思います。その理由はいろいろとあるでしょうが、その一つは、「では、肉体としての身体の存在はどうなるのか?」というところにあるのではないでしょうか。
確かに私たちには肉体としての身体が備わっています。私たち人間の存在に先立ち物質の世界は存在するという前提のもとで話を進めてきたわけですから、肉体としての身体は間違いなく存在しています。ただし、自らの肉体としての身体について語ることができるのは、自らの肉体としての身体の存在が認識できて始めて可能になる、ということを忘れてはなりません。
物質の世界の中に物質としてのコーヒーカップが存在していても、それが認識されることがなければ、コーヒーカップの存在について私たちは語ることはできません。もちろんここでも、認識に先立って物質としてのコーヒーカップの存在を認めています。しかし、繰り返しになりますが、認識されなければコーヒーカップについて語ることはできません。そして、認識されるのは物質としてのコーヒーカップそのものではありません。見るという行為にまつわる一連の過程を経て、目の前にコーヒーカップが存在していることが認識であり、その目の前のコーヒーカップは物質としてのコーヒーカップではなく、見かけの物質としてのコーヒーカップです。
私たちの肉体としての身体についても同じことが言えます。これも繰り返しになりますが、認識に先立ち肉体としての身体は確かに存在しています。ただし、肉体としての身体が存在していてもそれが認識されなければ、それについて語ることはできません。私たちが自らの身体について語ることができるのは、目の前に自らの身体が存在していて始めて可能になります。そしてその身体は肉体としての身体ではなく、「見かけの身体」です。つまり、私たちが「私の身体」として認識できるのは目の前に存在している「見かけの身体」であり、「肉体としての身体」ではないということです。
「私」という存在を、私=私の身体+私の心、という図式で表しました。この図式では、「私の身体」と「私の心」とは別々の存在であるかのような表現になっています。確かに、私=私の肉体としての身体+知、情、意から成る心、という図式であれば、「私の肉体としての身体」と「私の心」とは異質な存在です。
しかし実際は、「私の身体」は「見かけの身体」であり、「私の心」は「見かけの心」であり、両者は共に心の世界の中の存在です。従って、「私」はそれら2つの異質な要素から成り立っているというものではありません。両者は心の世界の中の存在であり、渾然一体となった存在です。事実、私たちは「私の身体」と「私の心」の両者は切り離せない存在であると感じていますが、その身体と心の切れ目を感じさせない一体感は、両者が共に心の世界の中の存在であり、「見かけの身体」と「見かけの心」という同質の存在であることに由来するものと思われます。
5−3 自己意識
「私とは何か?」という問い掛けには、自己意識という概念が含まれていることに注意が必用です。自己意識という言葉は大変やっかいな概念であり、それを明確に定義するのは難しいと言えます。そこで、心や認識の定義のときと同様に、自己意識についても深入りすることなく、ここでの話に耐えうるレベルのものでよしとし、簡単に定義しておきたいと思います。
自己意識という言葉は文字通りに解釈すれば、自己を意識する、あるいは、自己が意識される、となるでしょうが、「自己の存在を認識する」、あるいは「自己の存在が認識される」と言い換えることもできるでしょう。いわゆる自己認識という表現ですが、ただ単に意識を認識という言葉で置き換えただけのことですが、この方が扱いやすいでしょう
。
では、自己の存在の認識とは何でしょうか。自らの身体が存在することの認識でしょうか? あるいは、知覚、記憶、学習、思考、言語、情動、意思などを司ると考えられている心の存在の認識でしょうか? 私=私の身体+私の心、という考えのもとでは、その両方であると考えるのが妥当でしょう。そこで、自己意識とは「私の身体」と「私の心」の双方の存在が認識されることである、と定義しておきたいと思います。不完全であることは承知していますが、取り敢えずこの定義のもとで話を進めたいと思います。
自己意識とは「私の身体」と「私の心」の双方が認識されることである、と定義しましたが、それぞれが「見かけの身体」と「見かけの心」であると解釈されていることからすると、自己意識とは「見かけの身体」と「見かけの心」の双方が認識されることである、ということになります。
「見かけの身体」の存在が認識されるということは、単純な話です。すでにお話したように、目の前に広がる世界の中に存在することが同時に認識であるわけですから、視線を自らの身体に向けることによってそこに「見かけの身体」が立ち現れ、それが「見かけの身体」の認識ということになります。
もっとも、それが自らの身体であるという解釈がなされるには、高次のレベルの認識が関与することになります。従って「私の身体」の存在が認識されるとするには、より高次の認識についての検討が必用となるでしょう。しかし、「見かけの身体」の存在が「私の身体」の認識につながるだろうということは、想像するのにさして難しいことはないでしょう。
しかしもう一方の、「見かけの心」の存在が認識されるということになると、話は厄介です。何故なら、それは「見かけの身体」の顔の内側あたりに位置づけられていると考えられはするものの、見ることも触ることもできない極めて抽象的な存在だからです。
見かけの顔の内側に「見かけの心」が存在するという思いは、そこが視線の逆方向であることが大きな要因になっていると考えられます。視線の移動に伴い目の前に様々な対象が立ち現れるわけですが、その視線の逆方向にそれらの対象を見ている「私の心」が存在すると考えると、つじつまが合うからです。
「私がいて、その私が見ている」という思いが、そこのところの事情を端的に表しています。「私がいて」というときの「私」は、「私の心」と「私の身体」の双方のうち「私の身体」の意味合いが強く、「私が見ている」というときの「私」は、「私の心」の意味合いが強いと解釈できます。従って、「私がいて、その私が見ている」という思いは、言い換えると、「私には私の身体があり、その身体に宿る私が見ている」という表現になるでしょう。
もっともこれは常識としての思い込みであり、正しくは、目の前の「見かけの身体」を自らの身体であると思い込み、その「見かけの身体」の顔の内側から目の前に広がる世界を見ている、と思い込んでいるということです。つまり、「私が見ている」という思いは、言い換えて「見かけの心」という思いは、自らの「見かけの身体」に付随する思いであり、「見かけの身体」と独立に存在する思いではないようです。
このように、「見かけの心」はもともと間接的な形でしかその存在を表し得ないもののようです。それというのも、「私の心」という言葉で言い表されるべき本来の姿は、自らの「見かけの身体」を含む目の前に広がる世界そのものです。従って「私の心」の存在の認識は、「見かけの身体」を含めた「目の前に広がる世界」の存在の認識と同じであるはずです。
しかし実のところ、一般常識で「私の心」と思われているものは「見かけの心」です。「見かけの心」は、その「見かけの心」そのものが認識されるのではなく、私が見ている、私が聞いている、私が感じている、私が記憶する、私が話す、私が考える、私が決める、などというように間接的にしか表し得ません。それらの行為にまつわる「私が何々する」という思いが「見かけの心」の思いであり、同時に認識でもあると言えましょう。これらの思いは何れも自らの「見かけの身体」に付随する思いであり、「見かけの身体」に付随する形でしか表し得ないもののようです。
ちょうどそれは、目の前のコーヒーカップにコーヒーを飲むための器という意味が付随しているのと同じことであり、「見かけの心」は「私の心」という意味を獲得し、「見かけの身体」の顔の内側に位置づけられていて、それが同時に「見かけの心」の認識であると言えるようです。
自己意識とは「見かけの身体」と「見かけの心」の双方が認識されることであると、この項の最初でお話しました。これまでの話から分かるように、「見かけの身体」の認識は目の前に広がる世界に「見かけの身体」が存在することが即ち認識であり、一方、目の前に広がる世界で展開する「見かけの身体」に伴う、例えば「私が見ている」というような見かけの行為が、「見かけの心」の存在の認識につながると結論できるようです。
表現を変えれば、「私」が知っているわけではないのに、あるいは、「私」が認識しているわけではないのに、「私が知っている」、「私が認識している」という思いを持つことで、「私」という存在が作り出されている、とも言えましょう。
5−4 心の世界の中に、何故「私」が内在するのか?
心の世界の中に「見かけの物質の世界」、「見かけの身体」、そして「見かけの心」が内在していて、それらを私たちは「物質の世界」、「肉体としての身体」、そして「私の心」であると思い込んでいるということですが、では何故このような、私たち自身さえをも欺くようなトリックが仕掛けられているのでしょうか。
もっとも、欺くとはいっても、また、仕掛けられているとはいっても、手品のトリックとは違います。意図的であるということではありません。「見かけの物質の世界」と「私」が心の世界の中に内在していることから、私たち自身がその本当の姿を見抜くことができないでいる、ということです。
心の世界の中に「見かけの物質の世界」と、「見かけの身体」と「見かけの心」より成る「私」が内在するのは、それら「見かけの物質の世界」と「私」は、自らの行動をコントロールするシステムの一環として欠くことのできない大切な役割を果たしているからだろう、と考えることができそうです。つまり、私たち生体は外界から情報を取り込み、分析、判断を行い、行動しているわけですが、「見かけの物質の世界」と「私」は、情報の処理の過程で欠くことのできない役割を担っているものと思われます。
私たちの行動は、意識化されている部分と、意識化されていない部分とから成り立っていますが、意識化されている部分はごくわずかで、そのほとんどが意識化されていません。例えば、手を伸ばして目の前のコーヒーカップを掴むという例を取り挙げてみても、コーヒーカップの位置を知る、手を伸ばす方向を判断する、などのように、それらの各要所は意識されているものの、その大部分は意識されることなく自動的に行なわれています。
「見かけの物質の世界」と「私」は意識化された現象です。当然その背後には脳によるバックアップがあり、脳の生理学的なシステムによる情報処理の過程が存在していますが、それら脳による生理学的な過程そのものは意識化されることはありません。生理学的な過程に加え、「見かけの物質の世界」と「私」という意識化された現象が存在するのは、それらが情報処理の過程で、認識という点において欠くことのできない役割を担っているからだと思われます。
それを裏付けることがらの一つは、目の前に広がる世界や目の前の身体が、外界の写しという形で、また肉体としての身体の写しという形で存在しているという事実です。つまり、外界や肉体としての身体が写しという形で心の世界の中に存在しているのは、情報の分析や判断を行なう上で、そのような写しという形をとることが効率的だからだろう、と考えられそうです。
例えば手を伸ばしてコーヒーカップを掴もうとするとき、それがコンピュータによって制御されたロボットであれば、数値化された情報に頼ることになります。そこには私たち人間の場合にみられるような、意識化された現象が生じているということはないでしょう。しかし私たち人間の場合には、目の前に広がる世界にコーヒーカップと手とが存在していて、同時にそれらが認識であるという構図になっています。それら目の前のコーヒーカップと手が、その具体的な仕組みは分からないものの、手を伸ばしてコーヒーカップを掴むという行動を行なうのに際し、「私」が見ているわけではなく、「私」が認識しているわけではなく、対象そのものとして情報処理に役立てられているのは、ほぼ間違いないのではないでしょうか。
事実、同調のシステムのもと、目の前の手が目の前のコーヒーカップに向けて行動を起こすことは、物質の世界の中で肉体としての手が物質としてのコーヒーカップに向けて起こす物理的な運動と対をなしています。情報を得るには目の前に広がる世界の中でその対象に視線を向ければいい。それによって、数値化された情報などではなく、目の前に対象そのものが立ち現れることになる。手とコーヒーカップの距離や方向という位置関係は、数値化されたデータで示されるよりは、他ならぬ外界の写しという形で存在し、かつ認識であることの方が、情報としての活用度は飛躍的に高まるはずです。
この項のテーマである「心の世界の中に何故「私」が内在するのか?」、という問い掛けについてですが、ここでの「私」は「見かけの身体」と「見かけの心」から成り立っている「私」を指します。従って、この問い掛けの半分は「見かけの身体」に関連したものであり、いまお話した通り、「見かけの身体」が「肉体としての身体」の写しとして目の前に広がる世界の中に存在していることが情報処理の上で効果的である、ということが回答になるのではないでしょうか。
問い掛けのいま半分は「見かけの心」に関連したものであり、それは、「私という思い」の存在により、私たちの行動は「私という思い」の存在しないときとは全く異なる新しいステージに到達できるからではないでしょうか。
「私」は、「私」が見ている、「私」が聞いている、「私」が感じている、「私」が記憶する、「私」が話す、「私」が考える、「私」が決める、などの思いと共に心の世界の中に存在しています。しかし、すでに4−1で明らかになっているように、「私」が目の前の対象を見ている、「私」が周りの音を聞いている、「私」が身体にまつわる感覚を感じている、などというようなことはありせん。それらはいわば「見かけの行為」なわけです。それにもかかわらず、「私」が肉体としての身体を伴って物質の世界の中に存在し、かつ、いま挙げたそれらの行為を行なっているかのような思いを持つように仕組まれています。
それによって得られることは何でしょうか。例えば、目の前のコーヒーカップに手を伸ばしてコーヒーを一口飲むという行動について考えてみたいと思います。もし「私という思い」を消し去ってその一連の過程を表現すると、次のようになります。
コーヒーが飲みたいという欲求が生じ、欲求に基づいて手が伸びる。コーヒーカップと手の位置関係は、両者が目の前に広がる世界に存在していることで認識となっている。コーヒーカップが引き寄せられ、コーヒーが飲み込まれる。コーヒーの味が生じ、憩いの感情が生じる。
このように、「私という思い」を消し去ると極めて機械的な印象になりますが、ここに「私という思い」が関与すると、これら一連の行為は次のように言い換えられます。
「私」がコーヒーを飲みたいと思う。「私」が自らの意思でコーヒーカップに手を伸ばす。「私」がコーヒーカップと手の位置関係を把握している。「私」がコーヒーカップの取ってを掴む。「私」がコーヒーカップを引き寄せる。「私」がコーヒーを一口味わう。「私」は憩いを感じる。
このように、「私」が思う、「私」が決める、「私」が知っている、「私」が行動する、「私」が感じる、ということで、「私」という「行為する者」という思いが存在することによって、私たちの行動はまったく新しいステージで展開することになります。情報を得るには「私」が目の前の対象に視線を向ければいい。それによって外界の情報を「私」が手に入れることができる。その情報の分析は「私」がすればいい。対象に働きかけるには「私」が決断すればいい。
このように、「私という思い」の存在により情報の収集、分析、判断、決断、実行という、私たちの行動にまつわる一連の過程はスムーズに運ぶことになります。
このような思いは、私たちが常識として抱いている心、身体、外界についての考えそのものです。私たちは、心、身体、外界についての一般常識を疑うことなく信じていますが、実はその常識は誤りです。心の世界の中に物質の世界と肉体としての身体の写しが作り上げられていて、私たちはそうとは気付くことなく、それらを物質の世界と肉体としての身体であると思い込んでいます。その結果、肉体としての身体に「私」が宿っていると思い込み、「私」が物質の世界で行動していると思い込むことになります。
物質の世界において現実に行動するのは肉体としての身体です。ただし、肉体としての身体だけでは機械的な行動しかとることはできません。複雑な環境の下で高度に適応した行動ができるようになるには、それをコントロールするシステムが必用です。そのシステムは一方で神経回路網であり、それが私たちの行動を身体的な側面から支えている。また一方で、心の世界の中に「見かけの物質の世界」が存在し、また「見かけの身体」と「見かけの心」から成る「私」が内在することで、行動を認識という側面から支えている。
つまり、肉体としての身体に「私の心」が宿り、「私」が物質の世界の中に存在し、そして行動しているという、一般常識での図式が構成されることになります。
このようなシステム、つまり、脳による生理学的な側面からの情報の処理と同時に、意識化された世界が認識という側面から情報の処理を支えるというシステムにより、私たちの行動は成り立っているのではないでしょうか。「見かけの物質の世界」と「私」は、自らの行動をコントロールするシステムの一環として存在しており、そのような情報処理のシステムは情報処理の進化とでも、心の進化とでも呼べるものではないでしょうか。
6 おわりに
「私とは何か?」という問い掛けはいまに始まったことではなく、古くから関心が持たれていたようです。例えば、画家のポール・ゴーギャンは「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という言葉を残しています。また鴨長明は方丈記の中で、「知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来りて、いづ方へか去る」と記しています。
これらの言葉に共感を覚える人は数多くおいでのようです。ただし、この問い掛けは難問です。逆説めきますが、「私」という方向から考察しようとしてもトリックにはまり込むだけで、何ら答えを得ることはできません。「私という思い」から離れて、「目の前の世界は果たして物質の世界だろうか?」という、常識外れの問い掛けから始める必要があります。
本文中でもお断りしているように、ここでの話は「物質の世界が存在する」という前提での話です。そこから理詰めで辿ることで、「私とは、自らの心の中に生み出された存在である」という結論に辿り着きます。これは仮説ではありませんし、また、「そのような考えもある」という類のものではありません。
心や意識、更には「私とは何か?」について、多くの人たちが関心をお持ちです。それは心理学を始めとし、認知科学や人工知能などを研究する科学者でも同じことで、多くの研究者が心や意識についていろいろな考えを提唱しています。
ただ、それらの人たちはどのような前提条件の下で話を進めているのか、いつも疑問に感じています。心や意識について、誰もが納得する共通の基盤をいまこそ構築する必要があるのではないでしょうか。
僭越ながら、そこで一番必要とされるのは、「目の前に見えている世界は物質の世界ではない」という共通認識であり、そこから得られる結果を事実として受け入れることではないか、と思っています。
私自身、これまでお話してきたような考えの下に日々暮らしているのかというと、そうではありません。目の前の対象は見かけの物質である、目の前の身体は見かけの身体である、向こうから歩いてくる人も見かけの存在である、全ては私の心の世界の中の存在である、と考えて暮らしているわけではありません。常識通り、目の前の対象は物質であり、目の前に広がる世界は物質の世界であり、目の前の自らの身体は肉体としての身体であり、目の前の人はその人本人である、と思っています。
ただし、心や意識について考えを巡らすときは別です。「私」が自らの心の世界の中の存在であるというそのトリックの巧みさに初めて気づいたとき、思わず絶句したことを今でもよく覚えています。
しかしそれもひと時のことでした。美しく、雄大な風景に接するとき、心あたたかな人々と共にいるとき、健気に生きている動物たちを目にするとき、それらが自らの心の世界の中の存在であることに思いをいたし、心の世界の素晴らしさを、そして生命のかけがえのなさを改めて感じます。
拙い文章に目を通していただき、ありがとうございました。多分、これまでの話に納得されたとは思いませんが、できれば「目の前の世界は物質の世界である」という常識に疑問を持って頂けたのであれば、幸いです。より詳細な説明は、本稿の最初に紹介しました「心はどこにあるのか?」に記してあります。併せてご参照頂ければ幸いです。
2020年12月 白石 茂
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