2021年2月

私とは何か?

脳によって仕掛けられた難解なトリック

What am I? A hard trick set by the brain

                                               By 白石 茂

                                                              (Shigeru Shiraishi)

There is the English version. If you are interested in it, please check the following URL.

https://www.what-am-i-e.com

第1部 見かけの世界 第2部 私とは何か? 3 ダウンロード 4 ご意見・ご感想・ご質問



目次


第1部 見かけの世界


1 はじめに

1−1「私とは何か?」への回答

1−2 自己紹介


2 目の前に見えている世界

2−1 反例

(1)色の矛盾

(2)触覚の矛盾

2−2 反例の示すこと

2−3 逆さの網膜像

(1) 見るという行為の3つのステップ

(2) 2重像

(3)「見る」と「見える」の2つの動詞

(4) 二面性

(5) 逆さの網膜像についての回答


3 見かけの世界

3−1 見かけの物質の世界

3−2 見かけの身体

(1)目の前の身体と外界との境界

(2)目の前の身体と肉体としての身体の同調性

(3)目の前の身体にまつわる感覚の存在

(4)「私という思い」が目の前の身体とともに存在する

3−3 見かけの心

(1)見た結果とは何か?

(2)広義の心の世界と狭義の心の世界

(3)見かけの心

(4)「心」と「心の世界」の意味の違い


第2部 私とは何か?


4 「私」、の理解を妨げる3つのハードル

4−1 「私はここにいて、その私が見ている」というトリック

(1)「私が見ている」という思いの分析

(2)「私が聞いている」という思いの分析

4−2「目の前の対象を私が見て、その存在を私は知る」というトリック

(1)認識について

(2)認識という言葉の定義

(3)2つのステップ

(4)最初のステップ 「目の前の対象を私が見て」

(5)2つ目のステップ「その存在を私は知る」

4−3 認識という観点からみた心の世界


5 私とは何か?

5−1 「私」という存在の問い直し

5−2「私とは何か?」への回答

5−3 自己意識

5−4 心の世界の中に、何故「私」が内在するのか?


6 おわりに




第1部 見かけの世界

1 はじめに

「私とは何か?」というテーマからは、文学作品か、というイメージが湧いてこようかと思いますが、そうではありません。「私という存在」を哲学ではなく、宗教でもなく、科学の立場から明らかにしようという試みです。

もちろん「私とは何か?」のすべてを明らかにする、あるいは出来るということではありません。その核心部分を明らかにする、あるいは示す、ということです。

人間と機械の関係は古くから関心が持たれてきました。特に最近の人工知能の研究の進歩にともない、「私という存在」に新たに関心が持たれるようになってきています。しかしその多くは、一般常識の枠に留まったままで、真の有り様には迫っていません。今こそ「私の心」、ならびに「私という存在」の真の姿を明らかにし、共通の認識にすべきときだと思います。

実は、既に「心はどこにあるのか?」というテーマの論文をPDFファイルの形式でアップロードしており、その中で「私とは何か?」について、理詰めの説明を行っています。

日本語版: https://www.where-mind-j.com

英語版:  https://www.where-mind-e.com

ただ問題が問題なだけにPDFファイルの分量が多く、A4用紙で120ページほどになっています。そこで皆さんに、より容易に読んでいただくために、言わば短縮版をPDFファイルではなく、新たに掲載することにしました。短縮版ではありますが、問題の核心部分は省くことなく説明しています。

この問題に関心のある人たちに、また、心理学、認知科学、人工知能などを専門にしている人たちにも読んでいただければと思っています。

話の構成が分かりやすいように、左側に目次を、右側に本文を並列に配置しています。それぞれにスクロールバーを、また右端にホームページ全体のスクロールバーを設置しています。いま現在の話がどの辺りに位置付けられているのか、目次を参照しながら読んでいただければ分かりやすくなるのではと思います。 もし読みづらいようであれば、「2 原稿」に移っていただくか、「3 ダウンロード」から原稿(PDFファイル)をダウンロードして読んでいただくことも可能です。

1−1「私とは何か?」への回答

まずは結論からお話ししたいと思います。多分、「そんな馬鹿なことがあるか」という印象を持たれるかと思いますが、仮説ではありませんし、「そういう考え方もある」ということでもありません。言わば数学の方程式を解くように,理詰めで辿ることで到達する結論です。

私=私の身体+私の心、と定義した場合、一般常識では、私の身体=物質の世界に存在する肉体としての身体、であり、私の心=知、情、意で示されるような抽象的な存在、であると捉えられていると言えましょう。もちろん、そのように「私」を定義しても、何ら問題はありません。つまり、私=肉体としての身体+知、情、意で示される心、ということになります。

私自身、「私」をそのように定義することに反対する積りはまったくありません。しかし、私たちが「私の身体」、「私の心」と思っているものは、一般常識とはかけ離れたものです。

まず「私の心」についてですが、知、情、意は確かに心の一部であり、重要な役割を担うものですが、それが全てではありません。目の前に見えている対象、例えばコーヒーカップは、見るという行為にともなう脳の情報処理の結果、そこに存在しているものです。異論はいろいろとあるでしょうが、「心は脳による情報処理の結果である」とするならば、目の前に見えているコーヒーカップなどの対象のみならず、目の前に見えている外界そのものが「私の心」、あるいは「私の心の世界」と呼ぶべきものです。

「私の身体」についても同様です。目の前に見えている自らの身体も、見るという行為の結果であり、「私の心の世界」の中の存在です。つまり、目の前に見えている世界は、言わば「見かけの物質の世界」であり、目の前に見えている自らの身体は肉体としての身体そのものではなく、言わば「見かけの身体」です。

ここで再び「私の心」についてですが、私たちが感じ取っている「私の心」は私たちの視線の逆方向の顔の内側に存在していると思われているのではないでしょうか。この原稿を読んでおいでのあなたの立場で考えてみれば、あなたの視線の逆方向に「原稿を見ている私がいる」という印象を持たれているのではないでしょうか。

私たちは「私の心は自らの身体とともに存在する」という思いを持っているかと思います。しかしいまお話したように、私たちが自らの身体と思っているのは「見かけの身体」です。その「見かけの身体」に付随すると考えられている「私の心」は,本来の心そのものではなく、言わば「見かけの心」ということになります。

従って先ほどの図式は、私=見かけの身体+見かけの心、と表されることになります。表現を変えれば、「私とは、自らの心の中に生み出された存在である」ということになり、言わば入れ子細工のような様相を呈していることになります。

詳細な説明のない段階での結論であることから、意味不明のことと思います。また余りに常識からかけ離れており、「何か悪い宗教にでもはまっているのではないか」と思われるかもしれません。実際、私があなたの立場であれば、間違いなく私もそう思うことでしょう。逆説めいたことを言うようですが、「私とは何か?」という問い掛けは、「私」という方向から考えたのでは回答を得ることはできません。それこそが、本稿のサブタイトルである「難解なトリック」にはまり込むことになります。これからお話していくことになりますが、まずは、私たちの目の前に見えている世界の本質を知ることから始めなければなりません。

いまお話しした結論に至るには長い道のりを辿る必要があります。できるだけ簡潔に話を進めるつもりです。もし興味をお持ちであれば、しばらくお付き合いいただければ幸いです。

原稿はA4用紙にして30ページほどになります。そこで「3ダウンロード」に移動していただき、原稿をダウンロードして読んでいただくことも可能です。

1−2 自己紹介

余りに常識離れした話であることから、エセ科学の危ない人物の話ではないかと思われるかもしれませんので、簡単に自己紹介をさせていただきます。私(白石 茂)は早稲田大学大学院博士課程(心理学専攻)を経て、都内の大学で非常勤講師(心理学担当)を長年務めて参りました。

専門教育を受けているからといって、その人の考えが科学的だという証には必ずしもならない、ということは重々承知しています。ただ口はばったいことを言うようですが、客観的な事実の積み重ねで論理を展開する訓練は積んできたつもりです。一度本文をご覧になって、批判的に読んでいただければと思っています。


2 目の前に見えている世界

これから「目の前に見えている世界」、「目の前に広がる世界」とか、短縮して「目の前の世界」という言葉を頻繁に使うことになります。それらは何れも同じことを意味します。図1をご覧下さい。手前に手と足の一部が描かれており、見慣れない構図になっていますが、その人物にご自身を重ね合わせてみると分かるように、私たちの視線の先に見えている情景を描いたものです。「目の前の世界」とは、「私の目の前に見えている世界」、あるいは「あなたの目の前に見えている世界」のことです。目を開ければ色彩豊かに立ち現われ、視線の動きに呼応して連続して立ち現れ、目を閉じれば瞬時に見えなくなる世界のことです。

また、「目の前の対象」という表現も頻繁に使うことになりますが、これも「目の前に見えている対象」、あるいは「目の前の世界に見えている対象」ということを意味します。

これからお話する「私とは何か?」という探求の道のりは、まず「目の前に見えている世界は、物質の世界ではない」ということの理解から始まります。 古くから唯物論か観念論か、ということで議論されてきたことですが、私の立場は唯物論でもなく、観念論でもありません。「物質の世界が存在する」ということを大前提にして話を進めるので、その点において観念論ではありません。また同時に「見かけの物質の世界が存在する」という立場であることから、唯物論そのものでもありません。

2−1 反例

「反例」という言葉があります。ある定義や命題に反する例を挙げることで、その定義や命題を否定する際に用いられる手法のことです。では、「目の前に見えている世界は物質の世界である」とすると、矛盾が生じる例を見てみることにしましょう。

(1)色の矛盾

図1の緑色に着色された観葉植物をご覧下さい。意外に思われるかもしれませんが、色そのものは物質の世界には存在しません。原子、分子のレベルで考えてみると分かりやすいかもしれません。原子や分子の表面が赤い色や青い色をしているわけではありません。植物は電磁波を吸収して特定の波長の電磁波だけを反射します。その反射された電磁波が網膜に届き、脳で情報処理されて始めて緑色という色が生み出されるわけです。

言わば心の中で生じた緑色が、目の前の観葉植物の表面に見えています。網膜の段階で緑色が生じるわけではありませんし、頭の中が緑色という訳でもありません。目の前に見えている観葉植物が緑色をしているわけです。目の前に見えている植物が物質の世界の中の存在であるとすると矛盾ではないか、ということです。

ここで「光」ではなくあえて「電磁波」という言葉を用いたのは、光という言葉は色と密接な関係をもつ言葉だからです。赤い光、青い光という言葉を、赤い電磁波、青い電磁波と言い換えることで、そこのところの事情がお分かりいただけるかと思います。

原子、分子ということから炎色反応を思い浮かべ、反論される向きもあろうかと思います。炎色反応というのは、金属を粉末にして燃焼させると、たとえばリチウムは赤色を、銅は緑色の炎を示すという現象です。これは原子を構成する電子が燃焼による熱エネルギーを得て励起状態になり外側の電子軌道に移るものの、その状態はもともと不安定なので元のエネルギーレベルの軌道に戻りますが、そのとき特有の波長の電磁波を放出するという現象です。その電磁波の波長と色との間に間接的な関係があるのは事実ですが、色そのものは、電磁波が目に到達して脳で情報処理されて始めて生じるものです。電磁波を発生する電子に色が付いているわけではありませんし、電磁波が色を持っているわけでもありません。色は心理的な現象であり、脳の活動に伴って始めて生じるものです。

(2)触覚の矛盾

次の例です。目の前のテーブルの表面が滑らかだとしましょう。それを指でこすってみて下さい。滑らかな感触が指先、あるいはテーブルの表面に感じ取れたと思います。指先には感覚器があるので当然だと思われることでしょう。

では次に、ボールペンなどを手にして、その先でこすってみて下さい。如何でしたか。指でこすったときと同様に、ペンの先に滑らかさを感じとれたのではないでしょうか。しかし、ペンの先に感覚器は存在しません。「感じているだけのことだ」という反論があろうかと思います。しかしその触覚はあなたの頭の中にあるのではなく、目の前のボールペンの先、あるいはテーブルの表面にあるのです。「感覚がある」という表現に違和感を持たれるかもしれませんが、しかし感覚は存在しています。しかも無機質なボールペンの先、あるいはテーブルの表面に存在しているのです。

2−2 反例の示すこと

「目の前に見えている世界は物質の世界である」という常識に対して反例を2つ挙げてみましたが、如何でしたでしょうか。疑問を感じたでしょうか。疑問を感じないところに探求しようという気持ちは生じません。

一部の哲学者は、既に250年も前から、「目の前に見えている世界は物質の世界ではない」と主張しています。もっとも、余りにも常識からかけ離れた話であることから、「どうせ哲学者の言うことだから」とでもいいましょうか、今日その考えは広く知られているわけではありませんし、もちろん受け入れられてもいません。また、一部の科学者の中にも、目の前に見えている世界は物質の世界ではない、と主張している人たちがいますが、やはり、真剣に検討してみようという機運は生まれてきていません。

一部の哲学者や科学者はそのような結論を口にはするものの、「何故そうなのか」という理由を、分かりやすく説明することをしてきてはいないようです。何故、説明してこなかったかと言えば、それを分かるように説明するとなると、それは一筋縄ではいかない非常に厄介な作業だからです。

2−3 逆さの網膜像

前の項でお話した色や触覚についての反例に疑問を感じない人のためにいま一つ、逆さの網膜像の話を通して、目の前の世界が物質の世界ではないことを説明してみましょう。

私たちの目は凸レンズでできています。従って外界の対象は網膜上では逆さに映っています。しかし私たちは、正立した対象を見ています。「どうしてだろうか?」というのが逆さの網膜像という話です。日頃考えることがないだけに、疑問に感じる人は多いようです。

この説明はとても厄介です。まずは「見る」と「見える」という2つの動詞の分析から始める必要があります。一般的には「見る」という動詞は動作を表し、「見える」という動詞は状態を表すという説明があります。ただし、いま一つ意味が曖昧です。分析を進めてみましょう。

(1)見るという行為の3つのステップ

見るという行為を3つのステップに分けて考えてみましょう。分かりづらい言葉遣いですが、「見ている対象」、「見る行為をしている身体」そして「見るという行為の結果」の3つです。

「コーヒーカップを見る」という行為を例にとれば、「見ている対象」は物質の世界に存在する物質としてのコーヒーカップそのものです。

「見る行為をしている身体」は、コーヒーカップで反射された電磁波が網膜に到達したときから始まり、電気信号に変換された情報が大脳に伝えられ、そこで情報処理が行われ、ある種の物理的、化学的な状態が得られるまでの一連の過程を指します。「見る行為をしている身体」は長いので、今後は短く「見ている身体」とします。

「見るという行為の結果」が何を指すのか、それが難問です。それは文字通り、見るという行為の結果なので、物質の世界に存在するコーヒーカップそのものではないし、また大脳における情報処理そのものでもありません。実は、「目の前に見えているコーヒーカップ」そのものが「見るという行為の結果」なのです。「見るという行為の結果」という表現も長いので、今後は単に「見た結果」と表現することにします。

では、目の前に見えているコーヒーカップそのものが「見た結果」であるということを、2重像を使って説明してみましょう。

(2)2重像

図2(a)に示すように、目の前に鉛筆を1本立て、それを見て下さい。少しぼやけた2個のコーヒーカップの手前に、当然1本の鉛筆が見えるはずです。

次に視点を後方のコーヒーカップに合わせて見て下さい。すると図2(b)に示すように、それまで1本に見えていた鉛筆が少しぼやけて2本に見えるはずです。これが2重像です。

鉛筆に視点を合わせているときは、左右の網膜の中心部に像が結ばれることで1本の鉛筆として見えます。それに対して視点を後方にずらすと、左右の網膜の別々の、対応していない所に像を結ぶことになり、その情報が大脳に運ばれて2本の鉛筆が見えることになります。網膜の段階で2重像が見えるわけではありません。情報が大脳に運ばれた後に見えるようになるわけです。つまり、2重像は「見た結果」であることになります。

2本に見えている鉛筆が「見た結果」であるのなら、1本に見えている鉛筆はどうでしょうか。視点を鉛筆に戻せば2本が1本に戻ります。2本の鉛筆が「見た結果」であるのと同様に、1本に見えている鉛筆も「見た結果」であることになります。

「2本に見えている鉛筆はイメージに過ぎない」という反論が、多分生じるものと思います。しかし、2本に見えている鉛筆も1本に見えている鉛筆も、共に目の前の同じ空間に見えているのです。その点に注意すれば、「1本に見えている鉛筆が実在の鉛筆で2本に見えている鉛筆はイメージである」という論法は成り立たないことが、お分かりいただけると思います。

また、「2本に見えているだけのことだ」という反論もあろうかと思います。しかし、2本に見えるには網膜に像が結ばれる必要があります。つまり網膜に像が結ばれることと2重像が見えることの間には、原因と結果の因果関係にあるわけで、この点からも目の前に見えている対象が「見た結果」であることが分かります。因みに、1本に見えているときも2本に見えているときも、物質の世界では図2(c)に示すように、鉛筆は1本だけです。

(3)「見る」と「見える」の2つの動詞

「目の前に見えている世界は物質の世界ではない」という結論に対して、納得のいかない人は多いと思います。納得のいかない原因の一つは、「私という存在」あるいは「私の身体の存在」にありますが、それはひとまず置いておき、もう一つの原因である「見る」と「見える」という2つの動詞について考えてみましょう。

見るという行為には「見る」と「見える」の2つの動詞が使われます。日常生活では何の迷いもなく状況に合わせて巧みに使い分けられています。しかし目の前の同じ対象に対して、あるときは「見る」と表現し、またあるときは「見える」と表現しているところに問題が潜んでいます。

「見る」という動詞は、物質の世界において、そこに存在する対象に対して視点を合わせることを意味しており、それはあくまでも物質の世界でのことです。それに対して「見える」という動詞は、見るという行為の結果「見ることができた」ということです。

例えば、視力検査でランドルフ環の切れ目がどちら向きかを問われたとき、それがぼやけていて分からないとき、「分からない」と答えます。つまり、「見えない」わけです。しかしそれは、物質の世界に存在する視力表そのものがぼやけているわけではなく、網膜に映じた像がぼやけていて、それが電気信号に変換されて大脳に送られた後のことであり、物質の世界のできごとではありません。視力がどうであれ、物質の世界のランドルフ環の状態は変わらず同じままです。

目の前の鉛筆に対して「何を見ていますか?」と問われれば「目の前の鉛筆」と答え、「何が見えますか?」と問われれば「目の前の鉛筆」と答えます。つまり、目の前の鉛筆はときに「見ている対象」として、またあるときは「見た結果」として捉えられているわけであり、目の前の対象は二面性を持って解釈されていることになります。

(4)二面性

目の前の対象が「見ている対象」なのか、それとも「見た結果」なのかをはっきりさせることは、逆さの網膜像の話を超えて「心とは何か?」、更には「私とは何か?」を知る上で重要なポイントになります。

そこで,物質という観点から目の前の鉛筆について改めて考えてみましょう。まず、1本に見えているときの鉛筆は「見ている対象であり、物質としての鉛筆である」と、「目の前に広がる世界は物質の世界である」と考える人は、そう主張することでしょう。

では、2本に見えている鉛筆はどうでしょうか。「それはイメージに過ぎない」と主張するのではないでしょうか。しかし、視点を鉛筆に戻せば1本に見えるはずです。1本に見えている鉛筆が物質としての鉛筆であれば、2本に見えるとき、その物質としての鉛筆はどこに行ってしまうのでしょうか。共に目の前の同じ空間に見えている、あるいは表現を変えて、共に目の前の同じ空間に存在していることを認める必要があります。

2本に見えている鉛筆が物質としての鉛筆ではないのと同様に、1本に見えている鉛筆も物質としての鉛筆ではありません。2本に見えている鉛筆が「見た結果」であるのと同様に、1本に見えている鉛筆も「見た結果」です。

話をコーヒーカップに戻しましょう。「何を見ていますか?」と問われれば、「目の前に見えているコーヒーカップ」と答えることでしょう。「何が見えていますか?」と問われれば、「目の前に見えているコーヒーカップ」と答えることでしょう。

これまでの話から分かるように、あなたが見ているというコーヒーカップも、あなたに見えているというコーヒーカップも、共に「見た結果」です。あなたが見ていると主張するコーヒーカップは「見た結果」として正立しており、またあなたに見えているコーヒーカップも正立して見えています。つまり、目の前に見えているコーヒーカップは「見ている対象」であると同時に、「見た結果」としても解釈されているわけです。目の前のコーヒーカップは、あるときは「見ている対象」として、またあるときは「見た結果」として解釈されており、二面性を持っていることになります。

目の前のコーヒーカップは、「見た結果」としてそこに存在しているのです。それと対比すべき「見ている対象」としてのコーヒーカップは、目の前の世界のどこにも存在していません。目の前に見えているコーヒーカップを「見ているコーヒーカップ」として、また同時に「見えているコーヒーカップ」として両者を比較しているのです。

「見る」と「見える」という2つの動詞は日常生活において巧みに使い分けられています。例えば英語でもlookとseeというように2つの動詞が存在し、巧みに使い分けられています。しかしときに、逆さの網膜像のように、その矛盾を露呈することになります。

(5)逆さの網膜像についての回答

逆さの網膜像について疑問を感じるのは、目の前に見えている対象を普段「見ている対象」と解釈しているところを、逆さの網膜像の話になった途端に「見た結果」と解釈するところに原因があります。もっとも、目の前の対象を「見た結果」と解釈するのは正しい解釈です。

逆さの網膜像についての回答は、実は3−2でお話する自らの身体の解釈を待たなければなりません。つまり1−1で簡単に触れましたが、目の前に見えている身体は肉体としての身体ではなく、見るという行為による「見た結果」としての「見かけの身体」です。

逆さの網膜像の問題は、網膜に映じた逆さの像と、その元になる対象との正立、倒立関係を議論しなければなりません。物質の世界であれば、「見ている対象」と「肉体としての身体の網膜像」との間には確かに逆転現象が起きています。それは間違いのない事実です。しかし、いまあなたが比較しようとしている目の前の対象は、見るという行為の結果による「見た結果」であり、要するに「見かけの対象」です。一方、あなたが自らの身体と思っている目の前に見えている身体は、見るという行為の結果である「見かけの身体」です。その「見かけの身体」には網膜は存在しませんし、また当然のこととして、そこに逆転した像が映じているということはありません。

あなたが自らの「見かけの身体」の網膜に外界が逆さに映っていると思っていますが、そうではなく、もともと比較することのできない「見かけの網膜像」と目の前に見えている「見かけの外界」とを比較することで、疑問を感じているのです。つまり、逆さの網膜像という疑問は、目の前に見えている世界を二面的に解釈していることと、目の前の自らの身体を「肉体としての身体」であると解釈していることから生じる疑問だと言えます。3−2でお話する「見かけの身体」の項を読んでいただき、もう一度この回答を読んでいただければ、納得いただけるのではないかと思います。


3 見かけの世界

これまで「見かけの物質の世界」、「見かけの身体」、そして「見かけの心」という言葉を使ってきました。この節では、それらの意味を改めて説明することにします。

3−1 見かけの物質の世界

「目の前に見えている世界は物質の世界ではなく、見るという行為の結果生み出されたものである」という結論から、「目の前に見えている世界」を「見かけの物質の世界」と改めて定めておくことにします。

さて、これまでの説明でこの結論に納得いただけたでしょうか。多分、大多数の人は納得がいかないと思います。納得いただけなくても、「目の前に見えている世界は物質の世界である」という一般常識に疑問を持っていただけたのであれば、幸いです。

もっとも、「そうかもしれない」という思いが生じたとしても、「でも納得がいかない」という思いがあるかと思います。それは当然なことです。日常生活において、目の前の対象を「見ている対象」と考えても、特別な例を除いて何ら不都合が生じないからです。納得がいかない理由の一つは、「これほど広い目の前の世界がはたして脳の活動によって生み出されるのか?」ということではないでしょうか。VR(バーチャルリアリティ)を体験したことのるある人は分かると思いますが、目の前数センチメートルに映し出された映像をゴーグルを通して見ると、自らの身体の周りに広大な空間が広がっているかのような錯覚を覚えます。

VRコンテンツの中に、ビルの屋上に渡した狭い板の上を渡るというものがあるそうですが、それがバーチャルであることは知識として分かっているものの、下を見たときの高度感に思わず足がすくむとのことです。

私たちが日頃外界を見ているときと、ゴーグルを通して映像を見ているのとでは、どちらも網膜に映じた像をもとにしているという点で同じです。つまり、どちらも網膜の像をもとにして脳が情報処理をして目の前の世界を生み出しているのです。

更に厄介なのは、実は私たちには強い思い込みがあり、それが色や触覚に見られるような矛盾を覆い隠す働きをしています。その一つは「私という存在」であり、いま一つは「私の身体の存在」です。これらが理解を妨げる手強いハードルになっています。この原稿のサブタイトルを「脳によって仕掛けられた難解なトリック」とした理由です。話を進めましょう。

「私という存在」という思いからは、「私はここにいる。その私が目の前の対象を見ている。だから、目の前のコーヒーカップは見ている対象であり物質である」という誤った結論が導かれることになります。これは、「私とは何か?」という問題に最後までかかわる重要なポイントになります。そこで、第2部の4−1と4−2で詳しくお話することにします。

一方、「私の身体の存在」という思いからは、「目の前に見えている私の身体は肉体としての身体だ。その身体の外に広がる世界は物質の世界だ。従って、そこに見えているコーヒーカップは物質であり、見ている対象だ」という誤った結論が導かれることになります。

「目の前に見えている対象は物質ではなく、脳の情報処理の結果として生み出されたものだ」ということがもし仮に納得できたとしても、「見た結果、あるいは言い換えて、脳の情報処理の結果生み出された対象が、なぜ自らの身体の外にあるのか?」という疑問が生じます。私自身、この疑問を解消するのにかなりの時間を要しました。

結論から言えば、目の前に見えている自らの身体も物質の世界に存在する肉体としての身体ではなく、見るという行為を通して得られた「見た結果」としての「見かけの身体」であるということです。

3−2 見かけの身体

では、目の前に見えている自らの身体について考えてみましょう。目の前に見えているコーヒーカップが「見た結果」であるなら、目の前に見えている身体も「見た結果」であるという結論は、それが納得できるかどうかは別にして、比較的簡単に導くことができます。

試しに目の前に指を1本立てて見て下さい。1本に見えます。次に視点を手前に引いて見て下さい。2本に見えるはずです。鉛筆のときと同様、指もまた「見た結果」であり、見かけの指であることが分かります。もちろん指だけの話ではありません。自らの身体を見回せば、顔や背中などは見えませんが、それでも身体の大部分は見えるわけで、それら身体全体が「見た結果」であり、言わば「見かけの身体」ということになります。

あるいは、目の前の自らの手や足を見て下さい。肌色という色が見て取れるはずです。2−1反例の項でお話したように、色は物質の世界には存在しません。肉体としての身体から反射された電磁波が網膜に到達し、脳で情報処理されて始めて色が生じるわけですから、この事実からも、目の前に見えている身体は肉体としての身体ではなく、見るという行為の結果としての「見かけの身体」であることが分かります。

もっとも、これだけの説明で目の前に見えている身体が「見かけの身体」であるということを納得する人はほとんどいないでしょう。「自らの意思で動かすことができ、怪我をすれば痛い思いをし、血さえも出てくる。これが自らの肉体としての身体でなくてどうする」という考えに揺るぎはないでしょう。

納得のいかなさの背景には、(1)目の前の身体と外界との境界、(2)目の前の身体と外界との同調性、(3)目の前の身体にまつわる感覚の存在、更には、(4)「私という思い」が目の前の身体とともに存在する、というようなことが関係していると言えます。それらについては先に示したPDFファイル「心はどこにあるのか?」で詳しく解説していますので、ここでは簡単に触れるに留めたいと思います。

(1)目の前の身体と外界の境界

確かに物質の世界においては、肉体としての身体と外界との間には境界が存在しています。皮膚を境にしてその内部が身体であり、その外側は外界です。内と外とが明らかに分けられています。しかし、目の前に広がる世界においては、目の前の自らの身体は「見かけの身体」であり、目の前に広がる世界もまた「見かけの物質の世界」であり、それらの間に境界は存在しません。それらの表す意味という点においては違いがありますが、目の前の自らの身体と目の前のコーヒーカップはともに「見た結果」として同質のものです。

(2)目の前の身体と肉体としての身体の同調性

その仕組みは分かりませんが、目の前の身体と肉体としての身体は同調するように仕組まれています。物質の世界において、肉体としての手が物質としてのコーヒーカップに向けて移動を開始すれば、目の前の世界においても、手がコーヒーカップに向けて移動を開始します。鏡に向かって櫛で髪を整えるときのような例は除いて、両者の同調性は確保されています。

(3)目の前の身体にまつわる感覚の存在

「目の前の自らの身体には感覚がともなうではないか。従って目の前の身体は肉体としての身体だ」という思いがあろうかと思います。確かに感覚は刺激を受けたその部位に位置することになりますが、ボールペンでテーブルをこすったとき、感覚がボールペンの先端、ないしテーブルの表面に生じたことから分かるように、感覚の存在が目の前の身体が肉体としての身体であるという証拠にはなりません、

(4)「私という思い」が目の前の身体とともに存在する

「私という思い」とは自己意識につながる話になろうかと思います。これはこの論文の核心部分であり、後ほど「5−3自己意識」の項で説明します。

「目の前に広がる世界は見かけの物質の世界である」と主張する人は案外おいでのようで、それは哲学者に限らず科学者の中にもおいでです。しかし、目の前に見えている自らの身体が肉体としての身体ではなく、「見かけの身体」であると主張する人は殊の外少ないものです。

確かに納得するのは難しいですが、視点をずらすことによって1本の指が2本に見えるとか、手の色が肌色をしているなどのことを考えれば、自ずからその結論に至ることになります。「そんなはずはない」と考えるのではなく、事実を事実として捉え、理詰めで考えを進めることが必要かと思います。

目の前に見えている世界と身体が、それぞれ「見かけの物質の世界」であり、「見かけの身体」であるという結論からは、常識とはかけ離れた新たな事実が明らかになります。もちろん、物質の世界が存在し、肉体としての身体が存在する、という大前提の下での話です。

その説明に進む前に「見かけの心」について考察しておくことにしましょう。


3−3 見かけの心

(1)見た結果とは何か?

前にもお話したことですが、「心は脳によって生み出される」と定義したとすれば、「見た結果」は脳の情報処理の結果目の前に見えているわけですから、それは心のすべてというわけではないものの、心、あるいは心の世界の一部であると言えましょう。

一般常識で心と言えば、知、情、意のような高度な心理現象を思い浮かべるかと思いますが、それだけではなく、目の前に見えている対象も「心の世界」の一部であることになります。心について分析を進めるにあたって、コーヒーカップのような日常的な対象を例に挙げたのはそのような事情からです。

「目の前のコーヒーカップは見た結果であり物質ではない」という結論を押し進めれば、目の前に広がる世界は物質の世界ではなく「見かけの物質の世界」であり、目の前に見えている対象は「見かけの物質」であることになります。いずれも脳によって生み出された結果であることから、納得しづらいでしょうが、「心の世界」の一部であると結論付けることができます。

「心はどこにあるのか?」という問い掛けもときおり耳にします。目の前に見えているあなたの「見かけの身体」を含め、目の前に広がる「見かけの物質の世界」は、心のすべてとはもちろん言えないものの、「心の世界」の一部であると言えます。この点についても、最初に紹介した「心はどこにあるのか?」という論文の中で詳細に記述しています。ご参照いただければと思います。

(2)広義の心の世界と狭義の心の世界

「目の前に広がる世界は心の世界の一部である」というこの結論に対して納得のいかない思いがあると思います。「知、情、意のような高度な意識活動や、脳による情報処理を心に含める必要があるのではないか」ということによるものと思います。

そこで、知、情,意のような高度な内容や、脳による情報処理を含めたものを「広義の心」とし、目の前の自らの身体を含めた、目の前に広がる世界のみを扱うものを「狭義の心」と定義することにします。

本稿では、「狭義の心の世界」だけを扱かうことにします。また、その中でも「見るという行為」に関連したことに限りたいと思います。そのような制限の下でも、一般常識とはかけ離れた事実が明らかになります。

(3)見かけの心

今しがたの、「目の前に見えている世界は心の世界である」という話には納得がいかないものと思います。「心とはもっと高度なものであり、なんで目の前のコーヒーカップが心の一部だと言えるのか」といったところでしょうか。そこで、私たちが一般常識として理解している心がどのようなものであるかについて、見ておきましょう。

「心はどこにあるか?」と問われたとき、「心臓かな」と答える人が少なからずおいでのようです。しかしそれは主に情動に関連したものではないでしょうか。事実、「驚きで口から心臓が飛び出しそうだ」、「悲しみで胸が張り裂けそうだ」、「胸が締め付けられる思いだ」という表現があります。何れも情動に関係した表現です。

しかし一般的には、「私の心」は自らの顔の内側に位置すると考えられているのではないでしょうか。つまり、自らの視線の手前に「私の心」があると考えられているのではないでしょうか。事実、私たちはその位置から外界、実際は「見かけの物質の世界」ですが、を見ているという思いを持っています。つまり、「外界を見ている私が、そこにいる」という思いを持っています。

しかし、これまでの話から分かるように、私の身体と思い込んでいるのは「見かけの身体」です。そこには、心を生み出すと仮定したところの脳は存在しません。従って、「私の心」がそこに宿っていると考えるわけにはいきません。そこで、見かけの顔の内側に位置付けられている、「私が外界を見ている」という思いに由来するところの心を、改めて「見かけの心」と呼ぶことにします。そして、今しがた3−3(1)でお話した本来の「心」、あるいは「心の世界」とは区別して扱うことにします。

なお、「私が外界を見ている」という思いについては4−1(1)「私が見ているという思いの分析」の項で詳しく説明します。また、「見かけの心」と「私」の関係については、のちほど5−4で詳しくお話することになります。

(4)「心」と「心の世界」の意味の違い

分かりづらい話になってきています。これまで「心」と「心の世界」という2つの言葉を用いてきました。これまでのところは、ほぼ同じ意味として用いてきたと解釈していただいて構いません。つまり、脳の活動のもとで生み出されるものを指して「心」あるいは「心の世界」として用いてきました。ただし、前項で「見かけの心」を定義したこれからは、違う意味を持つ言葉としで用いることになりますので、その違いを明らかにしておかなければなりません。

「心は脳の活動によって生み出される」とした定義の下では、目の前の自らの身体を含め目の前に広がる世界のすべてが「心の世界」と呼ぶことができます。「心はどこにあるのか?」という問いかけの答えとしては、これがその答えということになります。「一般常識の心」とは異なったものですが、これが「心の世界」、「私の心の世界」ということになります。この意味で使うことになります。それに対して、「心」という言葉は今しがた3−3(3)でお話したように「私という思い」を伴って自らの視線の手前に存在していると思われているものを指して使うことになります。つまり「私の心」ということです。「私の心」は一般常識に基づくものであり、一方「私の心の世界」は、一般常識とはまったく異なった意味を持つことになります。これについては5−2項で改めてお話することになります。


2021年2月 白石 茂

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